TOP
CLUB
コース
コンペ
練習場
アカデミー
エチケット・マナー
六甲国際ゴルフ倶楽部は1975年、日本のゴルフ発祥の地・六甲山の麓の自然豊かな丘陵地に誕生。開場まもなく関西では稀な雄大でタフなコースと話題になった。設計は加藤福一氏。加藤氏は関西を代表する設計家のひとりで、兵庫県内だけでも15のゴルフ場を設計。その数は、日本人設計家の2大巨匠のひとり上田治氏が関西で手がけた数さえもうわまわる。しかも、そのほとんどのコースでプロ競技を開催した実績をもつ。
開場から8年後の1983年に「日本オープン」が開催された。大会を制したのは青木功。青木は当倶楽部での日本オープンに出場する半年前、「ハワイアンオープン」で、最終日最終ホールで奇跡の逆転イーグルを決め、アメリカPGAツアー初勝利をおさめ、日本人が世界に通用することを証明したばかり。世界で互角に戦う青木がこの大会を制したことは、当倶楽部のもつ高度な戦略性を証明したともいえる。その青木にして、優勝後の取材に対し、「このコースは長いよ、タフだよ。」と、言葉を残している。
1996年にニクラウス・デザイン社によって国際基準のコースへ改造。2グリーンは日本の気候から生まれた日本独特のスタイルだが、世界の著名設計家の多くは「世界レベルのトーナメントを開催するにはワングリーンが絶対条件」と、指摘する。
当倶楽部の改造設計は、考え抜かれた戦略性とコースの美しさを得意とする「ニクラウス・デザイン社」に依頼した。彼らは、当倶楽部がもつ元来の戦略性を認め、その良さを最大限に活かすことを念頭におき改造をすすめた。トーナメントを意識して、グリーンは全体的に少し小さく変更された。また、すべてのショートホールは全面的に改造され大幅に戦略性が高まった。造形作業は設計図に頼るだけでなく、高い技術で定評のある「シェーパー」ジョン・ノーシー氏をアメリカから呼び寄せる徹底ぶりだった。「シェーパー」とは実際にブルードーザーを操りコースの最終造成工程を担当する技術者のことで、著名な設計家は必ずといっていいほど専属シェーパーをかかえている。
改造が完成後、「海外のコースとまったく同じグリーンアンジュレーションや美しいバンカーリングが表現できた。世界的にみてもトータルディスタンスが非常に長く、雄大なスケールで国際的なトーナメントを開催できるコースに仕上がった」と自負している。
2012年の冬、日本オープンの開催が決定。私たちの国際基準の舞台づくりへの思いをさらに突き動かした。
1996年の改造から25年。その間、クラブやボールは飛躍的な進化を遂げた。ティショットの落としどころに設けられているバンカーはその時代のプロの飛距離を計算して配置されているが、タイガー出現に代表されるパワーゴルフへのシフト後、設計者がコースに込めた罠が機能しないホールもでてきた。それらを矯正してコースがもつ本来の意図を取り戻すため、当倶楽部は全米ゴルフコース設計家協会会長を務めるリー・シューミット氏に改造設計を依頼し、セカンド地点にバンカーを増設したり、ティグラウンドを拡張した。長年、ニクラウス・デザイン社の主席デザイナーを務めたシューミット氏は日本でもいくつかのトーナメントコースを設計している。
開場以来、一途に追求し続けた「ナショナルオープン」にふさわしいコース造り。
40年の歩みを経て、トータルヤーデージは大会史上最長の「7416ヤード」、コースの難易度をしめす「コースレート」も大会史上最高の「76.0」を誇る、「ナショナルオープン」にふさわしい最高の舞台がここに整った。
スマートフォン版を閲覧 |
PC版を閲覧
メンバー様Web予約
電話